2016年8月12日金曜日

名人


 武邦彦氏の訃報が伝わっています。

 各紙の報道では「ターフの魔術師」と形容していますが、当時の杉本アナウンサーの実況では「名人」と呼ばれていましたので、ここでは「名人」とさせていただきます。


 「天才」福永洋一と「名人」武邦彦。筆者が競馬を覚えた頃、関西を、と言うより、日本を代表する名ジョッキーでした。二人にまつわる物語は、トウショウボーイを中心に語らせていただきます。


 テンポイントはデビューから管理する小川佐助厩舎に所属する鹿戸明が騎乗、トウショウボーイは管理する保田隆芳厩舎に所属する池上昌弘が騎乗していました。当時はエージェントなど存在せず、所属厩舎の主戦騎手が騎乗するのが慣行となっていました。ようやくフリージョッキーが出だした頃の物語です。


 ダービーの時に鹿戸明が骨折して騎乗できなくなり、テンポイントには武邦彦が騎乗しましたがレース中骨折のため7着に敗れます。トウショウボーイはベテラン加賀武見が騎乗するクライムカイザーに交されて2着に終わっています。


 トウショウボーイの我儘な馬主は若い池上の騎乗に不満を抱き、札幌記念で大きく出遅れてグレートセイカンの2着に敗れると激怒し、神戸新聞杯から福永洋一が騎乗することとなりました。ところが菊花賞でトウショウボーイが3着に敗れたことにより、1976年の有馬記念から武邦彦が騎乗することとなったのです。


 「名人」を背に1976年有馬記念はトウショウボーイが快勝して鹿戸明のテンポイントは2着。翌1977年の宝塚記念も武邦彦騎乗のトウショウボーイがテンポイントを寄せ付けずスピードの違いを見せつけたのです。


 「史上最高の名勝負」として知られる1977年有馬記念、雪辱に燃えるテンポイントがトウショウボーイを降し、物語は完結しました。「名人」と形容された当りの柔らかい武邦彦の騎乗がトウショウボーイのスピードを引き出していました。1976年の有馬記念当日は12月としては異例の汗が噴き出すような晴天でパンパンの良馬場で行われ、2分34秒0のレコードでトウショウボーイがテンポイントを寄せ付けませんでした。翌1977年の有馬記念当日は年末特有のどんよりとした曇天で、良馬場発表ながら馬場は荒れており2分35秒5を要しています。この馬場状態の違いが前年と結果が入れ替わった要因であることはほとんど語られることがありません。


*文中「敬称略」とさせていただいております。ご了承ください。

*「史上最高の名勝負」と呼ばれる1977年有馬記念のパドックで撮影したトウショウボーイに騎乗する武邦彦騎手の勇姿。